SSブログ

佐村河内守 金スマ 壮絶な人生が明らかに… [TV]

スポンサーリンク




4月26日「金スマ 波瀾万丈」は全聾(ろう)クラシック作曲家
佐村河内守(さむらごうち まもる)の特集でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

両親は広島で被爆をうけていて、佐村河内守さんは
被爆2世になるそうです。

母は自宅で音楽教室をしていて、佐村河内守さんも
幼少期から母にピアノを習っていた。

子供の頃に交響曲を聴き衝撃を受け、自分も交響曲の作曲家
になりたいと思うようになる。

聴力を失う最初の予兆は…
高校時代に電車の中で、左目に激痛が走り
立っていられない程の頭痛に襲われる。

病院で診てもらった結果、片頭痛と診断された。

高校卒業後は、音大に行かず独学で交響曲の作曲を勉強
したいと18歳で上京。

アルバイトをしながら、作曲を続けていたが
片頭痛と嘔吐の発作に度々悩まされるようになり
発作がでると、アルバイトを辞めざるえなくなることも…


24歳で2歳年上の女性と結婚した。
間もなく、弟が20歳という若さで亡くなる。

弟の死から一週間後、耳鳴りがし左耳が聞こえなくなり
光が目から入るだけでひどい片頭痛がおこり耳鼻科を受診し
「突発性難聴」と診断された。

耳が聞こえるうちに作曲をしておきたと焦る日々
の中、小さい作曲の仕事を続けていた。

そして33歳の時に、映画音楽の作曲の依頼が
この作曲は高評価だった。

これからという矢先、35歳で完全に両耳が聞こえなくなった。

全く音が聞えない状態で、作曲活動を続けていけるのかと
悩み続ける。

そんなある日、小さい時に良く弾いていたベートーベンの
「月光」を思い出す。

音が聞こえなくても作曲が出来るのかと試行錯誤
し、絶対音感だけを頼りに作曲を続ける孤独な日々。

そして、ゲームの「鬼武者」の交響曲を作曲し、絶賛をうけたが
自分が作った曲を自分の耳で聞くことができないという屈辱から
音楽業界を去ることに…

そんなもんもんとした日を過ごしていたある日
知人の紹介で、盲学校に行くことに…

自分の訪問に、生徒達は純粋に喜んでくれたことが嬉しく
その後、色々な施設に足を運び、子供達との交流が始まった。

子供達と接するようになり、作曲への意欲がでてきて
2001年に、再び交響曲の作曲活動を再開する。

そして、2年の歳月をかけて作曲した「交響曲第1番 HIROSHIMA」
は、2011年に発売され12万枚というクラシック界では
異例の売上げを記録した。

“奇跡”と称される彼の作曲する音楽は
日本のみならず海外での評価も高く
「現代のベートーベン」と称賛されている程。

今でも、発作を抑える為に15種類の薬を、毎日飲まなけ
ればならず、強い光に当たると発作が起きるため
サングラスをかけ、暗い部屋で過ごすことが多い。

病と闘いながら作曲活動を続ける壮絶な人生の
「佐村河内守さんの波乱万丈」でした。



スポンサーリンク



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました
西野流呼吸法

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。